詩人 斉藤信夫について

 

校歌・園歌の作詞集

職歴

のどかな田園風景が広がる九十九里平野
その背後に広がる九十九(つくも)丘陵から臨める太平洋

そんな千葉県山武市(旧成東町)は「里の秋」が生まれた所でもあります

この歌の作詞した斉藤信夫は戦中戦後を通じて山武、東金市を中心に
小学校教師の傍ら好きな童謡の詩を書いていました。

そんな斉藤信夫の素顔を紹介致します

 

南郷小学校にある石碑

 

 

 

 

 

 

 

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた


明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す


さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

 

同氏は明治44年3月3日に現在の 「山武市五木田」、
当時の山武郡南郷村五木田に、「父親美樹、母親きよ」 の農家の長男として産声をあげました。

南郷小学校、成東中学校(現・成東高校) 千葉師範(現・千葉大学教育学部)を卒業

戦前の16年間を小学校教員、戦後の20年間を中学校教員として過ごされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩を書くことの好きだった彼は教務の合間を見ては作詞をして、あちこちの詩集に投稿していました。
そして、毎日一つ童謡を作り続けていました。

昭和12年頃、斉藤はいつも雑誌に童謡の作曲の投稿をしてくる 「海沼實」 という、童謡作曲家に興味を持ちました。

当時の「海沼實」も、まったくの無名で「音羽ゆりかご会」を立ち上げたばかりでした。

そんな海沼を斉藤は東京護国寺に訪問しました。
護国寺が「音羽ゆりかご会」の練習場だったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで里の秋が出来上がるまでのエピソードがあります。

初めて出会った海沼に斉藤は里の秋の元になる「星月夜」を手渡しました。

昭和16年のことでした。

時は太平洋戦争開戦直後、その詩の内容は後に歌われる里の秋とは大きく異なるものでした。

今では静かな「里の秋」 と言う、ゆったりとしたのどかなイメージですが、戦前斉藤信夫が星月夜にとして発表した歌詞は戦争に出向いた父親や兵隊さんに向けた戦意高揚の歌詞でした。

その詩の3 4番を紹介しますと

3) きれいなきれいな椰子の島  しっかり護ってくださいと あゝ父さんのご武運を今夜もひとり祈ります

4)大きく大きくなったなら兵隊さんだよ うれしいな。ねえ母さんよ僕だって 必ずお国を護ります

若い斉藤は日米開戦と言う大きな事件に衝撃を受けて、身も心も日本のためにと感涙しながらこの星月夜は書いたものでした。

時代背景がそのようなものでしたから致し方なかったでしょう。

そんな斉藤信夫のパリパリの軍国教師、当時ではごく普通の尋常小学校の教師であったので、自分の内なる燃ゆる思いから出た詩を海沼が敬遠するのが理解できませんでした

その時は意見が合わず別れた二人ですが、その後も斉藤とは交流が続き、『星月夜』の代わりと言う訳ではないのでしょうが、同昭和16年雑誌に発表された斉藤の「ばあやたずねて」に、海沼によって曲が付けられ、歌は世に残りました

それから4年後に終戦を迎えます。

終戦の混乱の中、NHKの依頼で復員兵を迎える曲を至急に作るように要請された海沼は、斉藤の「星月夜」に目を止めます。

海沼は、教員をやめてぶらぶらしている斉藤に 『スグオイデ カイヌマ』 という電報を送り 再会。

そしてこの詩の3番の内容を急遽斉藤に変更させて4番以降は削除して、題名も濁音のある童謡はよくないとのことで急遽題名を「星月夜」から 「里の秋」 に変更して、「音羽ゆりかご会」の川田正子さんに歌わせたのは、放送直前でした。

当時「川田」は小学5年生でした。

昭和201224日午後145分、この歌はNHKの<外地引揚同胞激励の午後>という番組で放送されました。

4年間眠り続けた童謡がようやく日の目をみたのです

 

 

 

 

 

 

 


川田正子が歌い終えるとスタジオ内は一瞬しーんと静まり返り誰もの心が浄化されたのが分かりました。

いえ・・敗戦にうちひしがれていた日本中の人々の心が放送により浄化されました。

川田正子の澄んだ唄声が皆の心に染みいるように流れた。歌い終わると辺りは時間が止まったように静まり返った。

やがて感動の呻きが遠雷のように盛り上がってきて、スタジオ内は拍手の嵐に包まれた

次の一瞬からNHKへの電話が殺到しました。さっき放送された曲に対する問い合わせばかりです。
ただ一曲の放送でこれほど反響のあったことはNHKでも初めてのことでした。

日本国中が、肉親の安否を気遣いラジオに聞き入っていたこの時に、この情感たっぷりのメロディが流れて、聴取者の心を完全に捉えました

「里の秋」は多くの人の要望に応え、翌1月15日から始まる告知番組「復員便り」のテーマ音楽として毎日放送されることになりました。

余談ながら,此の番組の反響の中に一般民間人の安否を尋ねる声も多く、NHKでは一ヶ月遅れの2月から「尋ね人の時間」も放送を開始しました。

戦争終結による外地からの引き揚げ、戦災による消息不明者などでこの告知板番組は34%という驚異的判明率を記録し、復興から繁栄に変わる30 年代半ばまで続く長寿番組となりました。

戦争による傷跡の深さを知るとともに、童謡の力を示す出来事と言えるでしょう。

 

曲は大ヒットしました。

しかし斉藤の心は晴れません。

と言うのも自分は教育者として、今まで少なからず戦争へと加担していた自分に対する自責の念にかられていたからです。

そのため彼は自分の教育者としての仕事を放棄していました。

その間、「川田三姉妹」の家庭教師として、生活をまかなったりしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

それらが幸いしたとでも言うのでしょうか。
教育者の浪人時代に、海沼、斉藤、川田の三人コンビで次々とヒット曲を生みだします。

「蛙の笛」や「夢のお馬車」などです。時代がまた、そういうものを要求していたのかも知れません。

「当時を回想して、斉藤は次のように書いています」

終戦の翌年三月、私は私なりに敗戦の責任をとる意味で教職を退いた。
早速、次の日から職探しに歩いたが、世は就職難時代で、なかなかみつからない。
四月十二日の夜更け、明日はどこへ出かけようかと、疲れ果てて横になった寝床へ
ーコロコロ  コロコロコロと、冬眠から覚めたばかりの蛙のかわいい声が聞こえてきた。

それが、悶々としてやるせない胸にはーガンバレヨ、ガンバレヨ、と聞きとれるではないか。
そうだ、蛙の言う通りだ。万物の霊長たる人間が、これきしのことで何たるざまだ。

よし頑張ろう、ついては、優しく励ましてくれた蛙たちに、思い切り早春の夜の歌をプレゼントしようとして書いたのがこの作品(蛙の笛)である。

悶々と数年間過ごした彼でしたが、やはり自分の天職は教育であると感じて、再び教員に戻ります。

また後になって斉藤さんは当時を振り返って、こうも語っています

「あの自信を失っていた時期に、海沼さんが声をかけてくれたこととマアちゃん(川田正子さん)を知ったことが、私の人生を明るいものにしてくれました。今は亡き海沼先生とマアちゃんに私は心から感謝しています。」と。



海沼は作曲家として、そして川田は童謡歌手として、別の道に進んで行きます。

 

教職に戻った斉藤は、その後も詩への創作活動は衰えることはありませんでした。

昭和29年からは月刊童謡詩 「花馬車」 を刊行。昭和36年(49歳)に作品1万編を志し、
昭和55年に目的を達しています。

最終的には1万1千127編もの作品になりました。

また多くの学校、園などの校歌の作詞を要請されて、その数は40に及びます。

そうした斉藤も病のため昭和62年9月にこの世への別れを告げました

それより早く海沼實氏も1971年にこの世を去り、川田正子さんも2006年1月22日夜、入浴中に意識を失い、病院に搬送されたものの、そのまま息を引き取りました。

71歳でした、

三人コンビはすべて天空で、一体どんな話をしているのでしょうか。

とかくに汚れやすい大人の世界にあって、いつも綺麗な子供の目線にたって、純粋な童心を高々と最後まで歌い続けて、またいつも故郷を思いの中に取り入れて吟詩される斉藤先生には、深い感銘を覚えずにはいられません。

 

(参照文献)子ども心を友として/斉藤信夫

里の秋 川田正子

(浜昼顔・写真引用) 我が友 カトちゃん